時々無性にだーっ!と出かけたくなる時がある。
以前ならバイクで遠くに出かけていたのであまりなかったのだけど、最近は控えているからか時々その衝動が顔を出す。何か思い出すなぁと思ったら学生時代によくあった事だった。学生時代はお金がとにかくなかったので(今も無いけど)移動と言ったら自転車。時々、時間関係無く小平市小川町1丁目ののアパートを飛び出てあてもなく青梅街道を走り出していた。
何を発見するわけでもないけれど、小平市とその隣の市をよくキコキコと漕いでいた。若いし、発散しきれない何かのエネルギーなんだと思っていたのだけど、アラフォーな今もまだあるんだなぁと受け止めて、今日も自転車で出かける事にした。
バイクを買ってからはひたすらバイクであちこちを走ってた。私がバイクに乗りたかったのは自分で感じながら行きたい場所に行けるからで、バイクそのものよりその行為に目的があった。この16年間、思っていたよりも沢山のものを見れたんじゃないかな。
良い経験が沢山あったし、精神的にボロボロになって行った北海道では自然と人に癒された。何が見たかったんだろう。見たい物を探すような旅ばかりしていた気がするけど旅では見つからなかったのよね。楽しかったけど、今はバイクじゃなくても遠くに行ける様にはなった。
遠くに行きたい。どこでもいいから遠くに行きたい。
遠くに行けるのは天才だけだ。—寺山修司
この言葉、昔とはちょっと違った意味で受け取っている。
話を戻して、我が家は父の方針でしばらく車が無かったので、移動手段は主に自転車だった。今日、自転車で遠出して気付いたのは、昔は普通に自転車で通ってた道が雑草ぼうぼうで、植え込みも伸び放題。漕いでいると「ばしっ」と植物が膝下や肘らへんを打って来る。昔と違って手入れが全然されていないみたい。逆側が柵も無い溝や田んぼの所もあるので落ちそうになって降りて押して通った所すらあったくらい。
昔は幹線道路の真ん中を歩けたくらい車が少なかったけれど、今では信号の無い所を横切るのはかなり勇気が要る交通量。自転車で暮らす人達は減ってきて、皆車で移動している事がよくわかる。
休耕田が増え、更地になった田畑など、田舎っぽい景色も年々減ってきている。隣の家のおじいさんが亡くなってから、この一帯の雑草が増えて治安がちょっと悪くなったのを思い出した。親よりも二周りほど年上の世代がいなくなり始めて少しずつ環境が変化して来ている様に感じる。
自転車で移動をすると自転車のスピードで周りが見れる。
歩くよりも視野は広く、歩くより移動も出来る。
車は車を運転する為の情報しか得られないに近い。
バイクはそれよりも色んな情報を得られるけれど、自転車の様に細やかには見る事は出来ない。
時にいつもと違うスピードで生活をするってとても大切なんだと思わされる。
インドで1ヶ月くらいを過ごすのもそれに似ている。ネットやスマホから少し遠ざかり、お馴染みの人達と過ごさないというだけで世界は違って感じる。
細やかに情報を得られる、いつもより緩やかなスピードというのは情報の絶対量を減らした状態で比例的に大きく発揮されるのね。
日本ではアシュラムの様な生活は難しい。日本の生活では4時に起きるのは辛いし、夜更かしした方が集中して仕事も進められるので本来の夜型に戻ってしまう(カルマヨーガは結構夜型で仕事してたけど…)
2ヶ月前、家でヨーガのクラスをする為にリビングの物を極力排除した。何かをする時だけ物を持って来て、また何も無い部屋に戻す事の繰り返し。花を定期的に生けたり、毎朝同じ場所でお香を焚いたり、昨晩はコリアンダーとフェンネルの種を収穫して瓶詰めにしたり、万年筆で手紙を書いたりしていた。この部屋だけ今までとは時間の流れ方が少しだけ変わった。
「日本ではアシュラムの様な生活が難しい」って情報が多過ぎるのが大きな原因なんだろうな。これは見えてる物、見えない物に限らない。社会が忙しいから仕方ない部分はあるけれど、少なくともその一部屋では前よりも細やかに暮らす事が出来ている。
ミニマリストになるつもりは無いけれど(ものを作る人はミニマリスは難しい)、いつでもまた旅に出られる様にもっと身軽にしておきたいと思う。
若い頃の「だーっと移動したい」欲求はやっぱり若さ故のものが強かったんだろう。今日はキコキコ漕いでいる内にすーっと落ち着いて来て、筋肉痛が静かに残った。昔は焦燥感が完全に消える事はなかったものね。
アーサナで鍛えられる筋肉と自転車で使う筋肉って違うよね。久々に自転車乗る度に思うけど。