コンテンツへスキップ

自分のピントが合う場所で

かなり昔に友人から種を譲ってもらった西洋オダマキ。毎年庭のあちこちで咲いてくれる。

 

昔、ある建築の先生の講義が非常に難しく、終わった後は皆目が点になっていたのを覚えている。「先生…、私達は建築科じゃないからもっと基本的な事を知りたいのですが」と嘆く生徒達に対して「細部がわかれば全部わかるから」と毎回細かい部分を話されていた。

今思うとあの細かさはあの学科にはやっぱり必要ではなかった気もするけれど、あの内容を理解出来たら全部理解出来ただろうなとも感じる。細部に宿るじゃないけれど、細部ってとても大切。

その細部よりもう少しひいて見たらそうでもなくなるのよね。これはカメラのピントによく似ている。

 

少し前の話になるけど、9/8、9/9と太陽フレアのせいにしたいくらいに眠く怠い日が続いたので庭仕事に集中していた。

庭仕事はヴァータ・ピッタ・カパともに非常に良いとされている。ヴァータ的な人の足を地につけ、ピッタ的な集中力を思う存分発揮出来、カパ的な人には運動にもなる。個人的には庭仕事をしているとストレスは消えて行くし、動けない時は動かしてくれ、動きたい時はそれを受け止めてくれる非常に有り難い存在。

インドと変わらないくらい蚊が沢山いるのでクローブで作った虫除けローションを塗りたくってクローブ臭を放ちながら庭に出るのが日課。姉がくれた虫除けの上着を着てフードもかぶり、首にタオルを巻き、ガーデニング用手袋をして長ズボン。オシャレなガーデニングからはほど遠く、30年かけて育ったジャングルと戦う事に近い。雑草を引き抜き、バジルや紫蘇を棒になるまで貪り食うバッタを捕獲し、隣の庭から侵入して来る恐ろしい繁殖力のつる性植物をひきちぎり、ジョロウグモの巣に時々ひっかかって謝り、大量の雑草をコンポストに放り込み、季節によってはここに伐採に近いくらいの剪定を行う。大袈裟に書いている訳ではなく、植物の驚異的な生命力と人間が快適に暮らせる庭のバランスを保つ為にここまでしてもまだまだ追いつかないくらい。

子供の頃は庭仕事をしている両親の横で遊んでいる程度で、虫の死骸が転がっているのを見てテンションが下がったりと、気まぐれなものだった。十代から植物や庭に興味を示し出し、同級生には植物は中年女性が興味を示す物だと馬鹿にされていた事もあった。そして今は艶やかなミミズが動き回るのを見て目を細め、気持ち悪いくらい転がっている大量の蝉の抜け殻を回収し、少しでも蚊が減る様に風通しの良い庭の維持(はまだ出来ていないけど)を目指す為に黙々と仕事をしている。

 

これは今年の春から始めた自分の試みの一つだった。今までの様に気が向いた時だけ庭掃除をするのではなく、1週間の内2回は真剣に庭仕事をし(毎回コンポスト満タン+ゴミ袋二袋の雑草や切り戻した枝葉が集まる)、その他の日はこまごま雑草を抜いたり掃き掃除したりのメンテナンス。

今年の庭は庭としての機能が戻って来た気がする。湿度が例年よりほんの少しだけ下がり、薬は使ってないけど蚊も毛虫も例年よりほんの少し減った。そしてバジルや紫蘇がバッタに食べられて棒だけになる事もなくなり、食卓に上る様になった。効果が見えるというのは嬉しい。秋になってようやくそれを体感出来るようになった。

 

庭仕事していると分かりやすい小さなレベルで調和の事を学べる。転がっている虫の死骸は時間と共に朽ち行き、蟻が補食し、土に還る途中だったりする。わかりやすく循環が目に見える。レンズもいらない肉眼の世界。

コンポストに入れた雑草達はゆっくりと体積を減らして、下の小窓から堆肥となって出て来る。そしてまた土に還り、野菜や草花の栄養になって結実させたり開花させたり庭を賑やかしてくれる。

突然瞬間移動したかのように消滅してしまうものは何一つ無い。

と、書きたいけれど残念ながら限界は多く、コンポストに入らない分は燃えるゴミとして出している。人間が作った文化に入る物だけだが消滅して行く。失われたエネルギーの源が賄う筈だった分量を購入して来る事になる。

在るものだけの本当の循環を感じながら田舎で生活したいとも思うけれど、なかなか難しい。どこかでは自給自足の生活にはいつか挑戦してみたい気持ちも少しはある。肉を食べないといけないと思っていた時は自給自足=屠殺しなくてはいけないというのがあって不可能だと思っていたけれど、菜食になっているのでそのハードルが無くなったのがその理由かもしれない。

 

母は新しく植物を植えるのが好きだ。植え過ぎ…!って思う時も多々あるけれど、本来母の庭なので何も言わない。私も昔は植物屋さんで珍しい植物を買う事が好きだったけれど、今は自分で買う事は殆どなくなった。私の役目は雑草を取り、剪定し、枯れた植物を取除き、切り戻す。維持は水まきはしますが自然も勝手にやってくれる。庭の中の誕生、維持、破戒は文字通りそのまま、とってもわかりやすい。

 

いつまで経っても他の昆虫にも食べられず放置される蟬の脱け殻、同じくいつまでも存在しているコノテヒバなどの枝葉、ふぁさっと触ると蚊がふわーんと沢山出てく露草、土蜘蛛の長い長い巣、女郎蜘蛛の巣にいる小さい雄の命がけの生活、ミミズが糞(良い土!)をする瞬間、その年によって違うカマキリの卵の高さ、滅多と見られない土蜘蛛、風通しの悪い所につくカイガラムシ、シュートを求めてやってくる蟻などなどなど。

 

庭の西には茗荷が生えている。売り物と違って刻んで食べるには口の中に残ってしまうけれど、半分に切って焼いてポン酢で食べると非常に美味しい。お酒を飲んでいた頃なら日本酒のあてにしていただろう。この茗荷は約30年前に祖父が東京の庭から連れて来て移植してくれたもの。毎年、きちんと育って私達の食卓を豊かにしてくれている。遺伝子や私にとって大切なものを残してくれただけでなく、今も私達の心身を育てる植物も残してくれている。

庭って生きてる。これをもう少し、もっと広げて行けたらどんなに良いかと思うけれど、人間にはこれが難しい。皆生きていて、皆で生きているのだけど。

数年前にお亡くなりになった隣の家のおじいさんはそれをもう少し大きな範囲で実践されていた。自分の敷地は勿論、共有の土地の掃除、公園の掃除、放置された場所を日々清掃し、率先して環境を保っていた。更に血のつながりの無い子供達の人生相談まで受けていて、時に愛あるお叱りまで。本当に素敵なカルマヨギー。彼がお亡くなりになってからは近所も全体的に雑草が増え、治安も少し悪くなってしまった。

答えはいつでも周りに転がっていて、庭でなくても至る所に存在している。残念ながらなかなか理解出来ないのが人間なので、自分のピントが合いやすい所から体感するのが良いと思う。そしてその範囲が少しずつ広がって行くと良いなと思う。

 

目に見えてるよりもーっと細部はまたすぐにわからない魅力的な世界が広がってるんだけどね、と石好きとしては思うけれど、マクロレンズ的な話はまた違う時に。