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広島での学びの二日間(2/2)

少し日が経ちましたが、広島で受け取った事はまだ新鮮に私の中に在ります。

話は広島から離れますが、私は小学校二年生の頃に親からもらった鍵付きの日記帳の1ページ目を書いてから「書くこと」はとても大切なものとなっています。このサイトになってからはあまり定期的に更新をしていませんが、毎日大量に書き綴っていた頃もありました。また、書くことで収入を得ていたこともありました。

口から発する言葉が得意でなかったからなのか、似た考えの人が周りに少ないと感じていたからか、常に孤独を感じていた小中高大、20代を生きる中でどこかに理解し合える人がいるんじゃないかという期待すら諦めていたからなのか、ただひたすらに書いていました。

因みに今は「孤独を感じるから云々」「どこかに理解し合える人がいるんじゃないか」という感覚はありません。ひとりを贅沢に満喫し、理解し合えない相手は発見や楽しみとなり、時に考える材料です。感覚の変化から書くことに依存することはなくなりましたが、今も書くことは大切なことであることには変わりがありません。

何故、こんな事を書くのかというと、中岡農園さんでの会話の中でこの「書くこと」が大切なキーワードになっていたからです。農園でまさか書くことの話をするとは思いませんでした。出逢った悟史さんと千内さんご夫婦は私の中ではなかなか珍しく「書くこと」について普通に話しても大丈夫だと感じた方でもありました。

言葉は多くありませんでしたが、少なくもありませんでした。
私にとっては比較的多く話したと感じています。

私は左脳人間と思われることがよくありますが、実際は感覚人間であり、その辺りを感覚的に、論理的に、どちらでも構わないのですが勝手に感じ取って接してくださる方、なんでも大丈夫な方とは誰でも持つ初対面の壁すら無くなってしまう事があります。別に人見知りが激しくてどうこうという意味ではなく「こんなことはまだ言わないでおこう」というストッパーが安心感と共に要らないという事であり、感覚でそういう判断を行っているので後から思うとそういうことだった、という事です。

感覚だけじゃ危ないでしょう、ということも感覚で決めた方がうまくいきます。これは単なる当てずっぽうではなく、今まで生きてきた中での経験の積み重ねから知らない所で脳が勝手に動いて結果を弾き出してくれるのを掴むからだと判断しています。下手に頭を動かすと、それほど賢くない脳が余計な考えや損得勘定を混ぜてしまうのか、うまくいかなくなります。また、感覚で決める事が結果的にも時間的にもリスクが少ない事も経験的に知っているので最近は争わないようにしています。

こういう人間は自分が何故それを選んだのか、その場ではわからない事が多々あります。何故か小学生の頃から熱烈にインドに行きたかったこと、先生の選び方、ヨーガを選択したこと、ヴェーダーンタやサンスクリット語を勉強しようと思ったこと、どれをとっても最初は意味すら分かっていません。便宜上「腰痛があったからヨーガを始めた」と言ったり書いたりしていますが、これは一般的に説明しなくてはいけない時に使っている記号に過ぎません。

自分が何を考えているのか、自分が何故それを選択したのか、どういう道筋を通ってきたのかを理解し、確認する時に便利なのが「書くこと」です。

今は昔ほどあやふやな人生を送っていません。自分が何をしたいのか、生きている間に行いたい事が明確にあるので、書くこともそれなりに現実から離れ過ぎません。若い頃はもっとふわふわしていたので掴めるような掴めないような空中に浮かぶ靄を捉えようとする文章ばかり書いていた気がします。時々当時の友人に「ポエムを書きたいの?」と言われて衝撃を受けた事があります。寧ろその逆で私は現実を捉える為に書いていたのに、と。

中岡農園さんはとても気持ちの良い方々で、会う人みんな気持ち良く過ごして帰れるんじゃないかな?と思うほどでした。それでも彼は「孤独を感じる事がある」と話されていて、その孤独の種類が自分が感じてきた意味での孤独と良く似たものなのではないか?と図々しくも感じました。ただ友人、知人がいない、という意味ではない孤独です。それはとても贅沢であり、素晴らしいギフトでもあることを最近になって感じているものです。

仕事内容やジャンルは関係がなく、行っている事自体が目的ではなく、その向こう側に存在しているもっと大きな循環に触れる、その一端として存在させていただく気持ちを持ちつつ、そのものである事。

私は美術を学んでいた時に循環が個人的なテーマでしたが、あやふやでしっかり表現する事ができずにいました。あれこれ考えた結果、自分は美術に興味があったわけじゃないという結論にたどり着きました。別に手段はなんだって良いということ、作っていても作らなくても、なんでも良いのです。その向こう側にある得体の知れない大きな存在の一端でありながらにして理解をしたいという事、それだけに過ぎません。

私は君であり、君が私でありながら、そこに在る全てとその循環。

久しぶりに少し曖昧で、ポエムと言われるかもしれないことを書いてしまいました。

宮島でも相変わらず私は上手に喋れませんでしたが、悟史さんの言葉も少しお借りして「久々に心躍りながら静かで厳かで、わいわいと楽しい時間でした。」

いつかまた、お邪魔させていただけますように。